館長(実は5代目)あいさつ
平成2年8月31日 奥羽本線名物 大沢、峠、板谷、赤岩
4駅連続スイッチバック最終日。ひとつの歴史が幕を下ろし、新たに山形
新幹線が登場しました。
このイベント前後、当店出入りの鉄道ファン・カメラマンの交流の場にとア
ルバムを準備したところ、10数冊分にもなる写真を寄贈いただきました。
が、落書き・写真への中傷的な書き込み・写真の抜き取り等が目に余る
状態になりやむなくアルバムを撤収することになりました。
しかし、できれば峠の茶屋の物語の一部にもなるアルバムを峠に興味を
もたれる方に開示したく、ウェブギャラリー開設を考えました。
当時私は中学生でしたが、一番熱心だったグループは自分よりいくつか
年上の若く熱きグループでした。俯瞰写真を撮るため山に登り、風雨に耐
えて電車を待ち、駅のベンチで駅寝。良い写真もありオシイのものもあり。
でも、「よき思い出を語り合うアルバム」という視点でオシイ写真こそ若き
写真家の研鑽の思い出ネタになると思い、多めに載せたいと思います。
当時を知る方もそうでない方も、彼ら諸兄の奮闘ぶりと熱意が織り込まれ
た写真に「平成2年の暑い夏‐小さな駅での熱い魂」を味わっていただき
たいと思います。(2009年6月第3展示室オープン記念あいさつ)
スイッチバックは先人が考え出した山越
えの妙。遺構は随所に残ってはいます
が、記憶もどうしても風化してしまうも
の。新幹線もいいけれど、各駅停車に
乗ってみるといつもとは違うものが見え
てくるかもしれません。
私、峠の茶屋の5代目であります。平成2年当時は中学生
でしたので、ただ漠然と忙しかったという記憶が残っている
程度。個人商店ですので、休日は、家族総出で餅をつくり
まくっていました。
スイッチバック廃止前は、いろ
いろ走っていましたね〜。『つば
さ』『やまばと』『あけぼの』、急
行や貨物も走ってましたし、ミス
テリートレインが突然進入してき
て、「とりあえず駅に売りに行こ
う」なんてこともしばし。今は線
路の幅が標準軌となったため、
ミステリートレインが進入! な
どということは皆無。あのころが
ちょっと懐かしい気もします。
峠駅に駅員がいたのは20年ほど前
まで。左の写真は雪かきの一場面。
春は、ホームに花壇をつくり、夏は、
登山客にアドバイス。ほのぼのとした
ものでした。
幼稚園から高校卒業まで、ずっと汽車通
学でしたので車掌さんも顔なじみ。うっか
り車内でウトウトやっても起こしていただ
いたりしてました。今でも、力餅販売の車
内アナウンスをしていただいたり、停車
時間の調節をしていただいたり、本当に
お世話になっています。
左の写真が4代目。力餅をうず高く積ん
でいるのがおわかりでしょうか。今はこ
んなことはありませんが。停車時間が2
0〜30秒の短期決戦ですから、よくて
5・6箱。ホーム上を走るような感じで売
っています。ちなみに、今では私5代目
がおもに、駅に立っています。なにぶん
こちらも商売ですので、電車の中でウト
ウトしている方が思わず起きてしまうよ
うな声をだしています。悪しからず。
交流の場となったアルバム
熱きコメントも書かれている
ギャラリーM.O.P Memorabilia Of ITAYA Pass
トレインフォト―ファン寄贈の写真展
第1展示室 『思い出のアルバム‐序』
第1展示室・拡張ギャラリー
『さよならスイッチバック以前―昭和50年代の鉄ちゃん寄贈写真』
2010.5.17アップロード
平成2年は『さよならスイッチバック』という一大イベントで鉄ちゃんが集結、たくさんの写真を寄贈いた
だきました。
残念ながらそれ以前の写真はあまりありません。現在と違いフィルム1枚1枚が高価な時代までさかの
ぼってしまいますから、ハレの日でないとカメラを手にしなかったものです。そんなかんじですが数枚だ
け鉄の写真をみつけました。平成以前のミニイベント
昭和59年 合理化によりスイッチバック4駅その他が無人駅となる
昭和60年 手動ドアの旧型木造客車が廃止。以後自動ドアの赤色客車のみになる
ということで、当時も多くはありませんがレアな撮り鉄がいました。寄贈いただいた写真をアップしてみ
ます。昭和の香りのする写真です。
1983年8月⇒昭和58年ですね 自分(5代目)のかあちゃんの駅立売り
昭和59年の4代目駅立売り