童話―峠駅物語+α      

最大勾配38‰(パーミル)、日本国鉄史・有数の難所・板谷峠越え

## 目次 ##
峠中心的年表(綴る量が増え、読みにくいとご指摘をうけ、別タブのページに)
歴オタ的米沢藩相関図(年表の参考に 別タブのページ)
・峠駅の変遷 →GO
・峠越えのメカニズム →GO
・赤穂義士!?大野九郎兵衛 →GO
・峠駅の秘境駅ランキング 20位/日本全駅 →GO
・県境と分水嶺 →工事中
・街道物語 上杉鷹山米沢入部(板谷宿にて) →準備中
・三島通庸と万世大路 →準備中  2014.6.9改訂

峠駅の変遷
## はじめに ##
本文中 ”レール”とあるのはレールが1本、2本…。箸1本、2本…とおなじ。レール1本では電車は走れない。
本文中 ”線路”・”複線、単線、本線、引込み線の線”とあるのはレールが2本平行に敷いてあって1組。箸1膳1組
      とおなじ。本線1本あれば電車が走れる。
”複線” 上り車線・下り車線が分かれている区間。
”単線” 上りと下りが同じ線路を走る区間。マチガイが起きたら正面衝突。
”パーミル” 1パーセントは100分の1。 1パーミルは1000分の1。
## @奥羽本線開通までの道 ##
近藤勇が板橋で散り、土方歳三が箱館五稜郭で露となった明治2年(1869)末、日本で初め
ての鉄道敷設計画が決定。およそ2年後、明治5年(1872)5月7日、品川−横浜間仮開業。
9月12日、新橋−横浜間正式開業。これを皮切りに日本国内隅々まで鉄道敷設が始まった。
当時は自家用車など当然なく、自分の足が交通手段の主流であり、遠距離輸送、大量輸送が
可能な鉄道敷設は、日本近代化の大きな力となった。時、まさに日清・日露への道を進む日本
国にとって、裏日本開発、および対ロシア前線となる奥州と国都東京を結ぶ大動脈整備が急
務となった。のちの奥羽本線である。鉄道敷設はそのほとんどは、街道と近いルートを辿るの
がもっとも理想的であり、かつ常識的である。東海道と東海道本線、奥州街道と東北本線、北
国街道と北陸本線といった感じである。奥羽本線は羽州米沢街道と近いルートをとられた。
大の障害は、”日本の背骨”奥羽山脈である。福島−米沢間わずか30数キロの敷設はトンネ
ル、橋梁の連続の難工事で5年3ヶ月を費やし、明治32年(1899)5月15日峠駅開業となっ
た。
## A国鉄最大の難所 ##
鉄道の勾配は25パーミル(1000メートル進むのに、25メートル登る)を限度とする原則で建
設されている。全国的に知られる碓井峠は最大66.7パーミルで例外中の例外。機関車の自
力のみでは峠を登れず、アプト式(*1)を採用した。板谷峠はそれに次ぐ最大38パーミル。25
パーミルははるかにオーバーしているが、アプト式のように一歩一歩堅実に登る補助装置を採
用せず、補助なしの粘着式を採用。これは、蒸気機関車を使った当時の技術水準からすれ
ば、無謀な”冒険”であったと言っても過言ではない。
機関車の性能がはるかに向上した今日では実感がないが、碓氷峠が軽井沢と横川で分断さ
れた現在、板谷峠がJR最急勾配地点に位置付けられる。
*1 アプト式 歯車式鉄道。急坂で列車が滑らないように、軌道の中央に特設のラック−レールを取り付け、機関車
         に備えた歯車とかみ合わせて進ませる。わが国では明治26年(1893)、信越線横川−軽井沢間の
         碓氷峠に設けられたが、昭和38年(1963)に廃止。現在、大井川鉄道で体験できる。
## B峠駅誕生 ##
福島−米沢間(板谷峠越え)は最大38パーミルの勾配になる。1000メートル進むのに、38
メートル登ることになる。人間でも、100メートル走のゴールが3.8メートル高かったなら、か
なりの体力がいる。当時は当然ながら蒸気機関車が牽引していた。石炭エネルギーであるか
らたいした馬力にならなかった。まして、当時は、石炭車・貨物車・客車・郵便車・展望車!と、
とにかく長かった。羽州街道に、板谷宿・大沢宿があり、駅を設置したが、どうしてもこの区間
を一息で登れず、石炭と水が枯渇してしまう。そのため、2駅の中間・峠の頂上に給水、石炭
補充のための駅を作った。周りには当然民家などなく、部落名(地名)などない。駅名はそのも
のずばり””峠””と名づけられた。
  
・スイッチバック現役時代の峠駅。在来線が駅引き込み線上停車中に(写真上)、本線上を特
 急通過(写真下)の図。
## Cスイッチバックとはなにか ##
蒸気機関車では一息で山を越せない。そこで途中停車する駅で燃料補充をした。ここで問題
なのは、駅をどのようにするかということである。ところで皆さん、自動車教習所では坂道発進
に泣かされたのではないか。私は、よくエンストして冷汗タラタラの思い出がある。また、自転
車に乗って坂道を登るとき、一息で登れず足をついてしまった場合、再びこぎだすにはかなり
の労力がいる。蒸気機関車もまたしかりである。場合によっては、停車して給水しているとき
に、坂を滑り落ちることも考えられた。その対策として、駅は平らな所に設置本線より列車を
引き込むことにした。駅での補給の後、いったんバックして退避引き込み線へ。平らなところで
発車し、加速をつけて坂に挑む。これがスイッチバックである。現在峠駅のある(私の住んでい
る)ところは、もともと平らな土地がなく、トンネルを掘った土で川を埋め立て、その上に峠駅を
作った。

                 

                 

## D峠の力水 ##
蒸気機関車での峠越えは難儀を強いられた。ちょっとした雪、落ち葉が線路にかぶるだけで車
輪が空転して、その度に線路に砂をまいたり落ち葉を掃いたり。ダイヤが乱れることなどしょっ
ちゅうだった。だから乗客は、駅に着くたびほっと一息。峠の力餅は、列車が発車するまでの
つかの間の休息のお茶請けとなった。前述したとおり、峠駅は給水を目的とした駅。こんこんと
流れる水で、すすけた顔を洗い、のどをうるおした。いつのころからか駅頭の水は、峠の力餅
にちなんで峠の力水と呼ばれるようになった。
           
・旧駅内の峠の力水、獅子頭の口から涸れることなく流れていた。
## E蒸気機関車が消え ##
蒸気機関車が馬力がないものだから、峠駅には各駅停車の鈍行だけでなく、優等列車(いわ
ゆる特急)も貨物だけの列車もすべて止まった。今では、3世帯の峠部落は最盛期で80世帯
ほど、おもに鉄道関係の家族、鉱山関係の家族(滑川鉱山で鉄鉱石)、温泉まで荷を運ぶ強
力。終戦後真っ先に電化工事が開始されたのは、板谷峠が全国的にみても指折りの難所だっ
たあかし。電気機関車の馬力は格段に違い、優等列車は峠駅に停車の必要がなくなった。
## F新しい時代 山形新幹線 ##
時の流れは速く、日本国有鉄道がJRとして生まれ変わり、毛細血管のような全国の支線は廃
止、第3セクター化。1人で1台の自動車を所有する時代に鉄道は大きく様変わり。大動脈た
る奥羽本線はミニ新幹線整備となり、線路の幅を改修することになり、4駅連続スイッチバック
も廃止。各駅停車も旅客列車から通勤電車に様変わり。峠駅は本線上スノーシェッド内に移
る。
* 改軌工事 ミニ新幹線の走る路線にはレールが3本のところもある。狭軌上を在来線、標準軌上を新幹線が走 
          る。福島ー米沢間はその方法を採用されなかった。要因はいくらかあるがそのひとつにスイッチバッ
         クシステムがある。上の絵は分かりやすく単線で書いてあるが、実は4駅とも複線。本線が2本あり、
         引込み線も2本。線路は複雑に枝分かれしている。そんな場所に3本目のレールを敷いたらどうなる 
         か。おっきな事故も起こりうるというわけで枝分かれしている線路を取り除くことに。これすなわち、ス 
         イッチバック廃止。今走る在来線は標準軌の特注車両。理屈ではそれに乗ったまま、東京・大阪・福
         岡までいける。逆にいえば、狭軌のSL、貨物、寝台、特急、その他いろいろ走れなくなった(シクシ 
         ク)。
## G今に残るスノーシェッド ##
スノーシェッド 直訳すれば”雪よけ”。奥羽山脈のほぼ中央たる峠駅は全国的に見ても豪雪
地帯。今でこそ機械力で除雪できるがそれでも積雪3メートルにはなる。スイッチバックシステ
ムを採用している大沢・峠・板谷・赤岩駅にとって、線路の分岐点(ポイント)に雪がはさまり凍
りついたりすると、列車が脱線するという問題があった。当時はブリキの弁当箱に石油を入
れ、チョロチョロと火をつけ融雪するなど24時間交代で線路を守った。そこで、ポイント全体を
屋根で覆い、線路上の積雪を減らす対策が採られた。それがスノーシェッドである。近くで見る
と、骨組みにはレールを、壁板には枕木を使用しているのが分かる。独特の空間をかもし出し
ており、近年映画『さヾなみ』の撮影にも使われた。

                  
      疾走する山形新幹線  スノーシェッド内部  スノーシェッド内部の峠駅
  2005.8.31スイッチバック最終列車15周年改訂
  ページ上へ

以下、より詳しくお知りになりたい方のため、鉄道雑誌の内容を抜粋します。
スイッチバック廃止前1990年発売 季刊 旅と鉄道74 旅情は山を越えて−峠 より

山越えに見る鉄道のメカニズム
 山越え−国土の大半を山岳地が占めている日本国内の移動では、これは避けられない宿
命である。それでも、急坂を登る列車はモーターをうならせ、またはエンジンを轟かせ、とても
力強い。もちろん、車窓も山々の樹木を真近に見られるほど山間へ入るから、旅行者の目を
楽しませてくれる。
 山を越える鉄道でだれもが最初に思い浮かべるのが、トンネルであろう。もちろん、トンネル
を一つも介さずに山を越えることもできるが、自動車と違いレールと車輪との粘着に頼る一般
の鉄道は、急な勾配を登れないため、この場合はループ線やスイッチバックといった特殊な方
法をもちいることになる。では、山越えにはどのような方法があって、どのような線区に使用さ
れているのか、これから述べてゆこう。
## @山越えの方法 ##
@ トンネル
A ループ線
B スイッチバック
C トンネルなし
D 補機の使用
 このように、山越えの方法は大きく五つに分類できるが、D以外は線路の敷設形態である。
また、ここにはふくまれていないが、碓井峠で使用されていたアプト式というシステムも山越え
の一つの手段ではある。@のトンネルは、近年の土木技術の向上により非常に多く使われて
いる。鉄道が発展・発達する途上で建設された多くの幹線では、トンネルはむしろ少なく、比較
的新しいローカル線のほうがトンネルを多用して山々を貫いている。幹線鉄道でも建設当時、
工事費用を抑えるためトンネルを最小限の距離として迂回していたところを、のちの電化や複
線化のさい長大トンネルでこれをショートカットしてしまう例もある。北陸本線の北陸トンネル
中央本線の塩嶺トンネルなどがこれに該当する。一般的に、トンネルを使わずに山を越えるこ
とは線路を山中に引きまわすことになり、そのうえ勾配がきつくなるため、必然的に輸送量が
頭打ちとなってしまう。なるほど、トンネルは完成してしまえば
電化・複線化による輸送量アップが簡単に達成できるなどいいことづくめである。ただしここに
たどりつくまでは工期や費用の点で大いに難点がある。
 Aのループ線は、国内に現存するものは少ない。これは山越えのためにトンネルをできるだ
け避け、線路をらせん状に引きまわすことによって距離をかせぎつつ、高さもかせいでゆくとい
う方法である。実際には地形上の制約もあり、トンネルを全く介さずにループ線を敷き、元の線
路を乗り越すという芸当はできないようである。有名な上越線の松川ループは上り線のみで、
そのほとんどがトンネルで占められている。これに対して北陸本線・新疋田−敦賀間のループ
(上り列車専用)はトンネル部分が短く、山の斜面に線路が引きまわされている。前者の場合
は小半径の曲線と勾配の線路をトンネル内に敷かなかればならないため、難工事となってしま
う。
 Bではスイッチバックをあげたが、表に掲げたように厳密な意味での山越え、もしくは、山に
登るために設けられたケースはあんがい少ない。というのは、スイッチバックの多くは山を登る
途中で駅に寄るためや、列車の交換のための設けられているからである。奥羽本線に四駅連
続するスイッチバック駅もその一つである。この形態のものは、水平な場所に交換設備を作
り、列車が進入・進出しやすいようにしたほか、停車している車両が勾配によって転動してしま
うことも防いでいる。では、本来の山越えのためのスイッチバックとは、どのようなものだろう
か。それは、山を登るために線路をジグザグの敷き、そのたびに列車を折り返さなければなら
ないものをいう。例としてあげると、箱根登山鉄道が代表であり、JRでは木次線の出雲坂根
豊肥線の立野などが該当する。これらのスイッチバックはループ線と異なり、トンネルを使うこ
とがなく、まさに山肌にへばりつくように作られている。ただ、ジグザグの線路がまるで山道の
ようにつづら折りになってしまうと、折返しの手間がかかって、実用上に問題が生じてしまうの
で、先の例のようなところでも、二段式スイッチバック(線路自体は三段)までである。山越えを
しないスイッチバックとしては、会津若松早岐などの例があるが、これらは町に寄るためと、
かつ線路をさらに目的地へ向けて引きやすくするため、こうせざるをえなかった…というケース
が多い。
 では、現在ではスイッチバックは建設されなくなってしまったのだろうか。これはトンネルの項
でも書いたように、土木技術が向上したため、わざわざスイッチバックを作る必要がなくなって
しまったのである。また、従来は、スイッチバックが連続していたところでも、電化・複線化によ
り、これを廃止してしまうことが多い。中央本線の初狩や勝沼はかつてスイッチバック駅だった
が、電化によって電車化され、構内の勾配が25パーミルでも十分に発車できるため廃止して
しまった。なお、初狩は現在でも貨物列車用の駅としてスイッチバックを見ることができる。
 Cではトンネルを使わずに山を越える方法について述べてみよう。ひと言でトンネルなしとい
っても、線路敷設場所の選定は非常にむずかしいものがある。一般的なのは山から流れ出す
川にそって上流へたどり、その源流近くで峠を越えてしまう方法だ。これは、川が、急流であっ
たり、渓谷であると使えない方法だが、北海道のちほく高原鉄道はまさにこの方法で、山深く
入っていってもトンネル一つなく、峠をクリアしている。また、他の手段としてはループ線のよう
に線路は交差しないものの、Ω(オメガ)ループといったものも、内容的にはよく似ており、釜石
線の陸中大橋付近がこの形をとっている。根室本線の落合−新得間ではトンネルこそあるも
のの、この迂回の方法をとり、山を下りてゆく。このような形は東海道本線の大垣−関ヶ原間
などにも見ることができ、上り勾配となる線路にだけ迂回線を設けていることもある。
 以上のような方法で線路を敷設してもまだ勾配がきつい場合は、Dの補機使用となる。性能
面から所期の牽引力を発揮できない場合に補助機関車を連結してやり、パワーアップする方
法である。特に有名なのは信越本線・横川−軽井沢間で、最大66.7パーミルという勾配のた
め、全列車に2両の電気機関車が連結される。
 このように、山越えに欠かせない方法を五つあげて説明してきたが、今度は、山越えの途中
にある信号場について書いてみよう。複線で山を越えているならともかく、単線の場合は麓か
らやっとの思いで山を登ってきても、峠付近で対向列車とかち合ってしまっては仕方がない。そ
こで山のなかに信号場を設けて、列車の交換をする。単線時代の奥羽本線峠駅などがまさに
そのよい例であった。現在でも石北線の上越信号場や常紋信号場がこのパターンで、人里は
なれた山中で、列車交換のため小休止することがある。これは信号場にかぎったことではな
く、駅として機能している例もあり、山田線の区界篠ノ井線の姨捨などが該当する。姨捨駅
での普通電車はスイッチバックに入り、特急や貨物列車を待避している。
## Aダイヤ上に見る山越え ##
 では、地図などを見ずにこれらの山越えを判断するには、どこを目安にするとよいだろうか。
時刻表の地図と時刻記載ページをよく眺めてみると、わかってくる。本線・支線し関係なく、列
車の本数が極端に少なくなっている区間がそれである。つまり、人の流れが少ないわけである
から、そこに地形的な”壁”があることになる。こうした区間はまた、県境など、行政上の境界に
もなっている。奥羽本線の及位−院内間や仙山線の作並−山寺間、西のほうでは豊肥線の
宮地−豊後萩などである。これらは前後の区間と比べて列車本数の少ないことが時刻表から
読みとれるが、巻頭の地図で確認してみると、これらの駅間には県境が引かれている。ここに
山が横たわっており、峠のあることが容易にわかる。
 ダイヤグラム上でも同様で、本数だけでなく列車のスジに補機連結のマークが記してあった
り、駅名の前にスイッチバックの”S”が表示されたりして、山越えをうかがわせている。もっと
も、一番わかりやすいのはダイヤの左端に列挙された下り列車に対する標準勾配と駅間距離
であろう。
## B山越えを体験するには ##
 それでは実際に列車で山越えを体験するには、どのような線区やどのような列車に乗ればよ
いのだろう。日本は国土全体を山地に覆われているため、列車に乗り100キロも行けば必ず
山越えに直面する。特に太平洋側から日本海側へ抜けようとすれば、少なくとも一回、多けれ
ば三回も山越えを強いられる。このうち一回の山越えですむのは上越線の谷川連峰越えで、
ループ線や清水トンネルだけで抜けてしまう。逆に三回も山越えをしなくてはならないのは三陸
海岸方面から、秋田県へ抜ける場合である。しかし、たんにトンネルで抜けてしまうのでは風景
が楽しめないので、少々時間がかかっても支線系統の列車に乗ってみることをおすすめする。
あるいは、本線筋の特急で…というなら北陸本線の新疋田−敦賀間の上り線ループ信越本
線の横川−軽井沢間奥羽本線の福島−米沢間などがある。ただし、板谷峠はスイッチバッ
ク駅が連続するものの、普通列車でないとこれは体験できない。また、上越線の松川ループ
も、列車設定パターンから見て普通列車で味わうことになる。これらの山越えのいくつかを北
から順に紹介してみよう。
 北海道・根室本線の狩勝峠越えは落合・トマム−新得間にあり、特急列車でも十分に味わう
ことができる。千歳空港方面からの列車が長いトンネルを出ると、左手はるか下に新得の町
がひろがる。いくつもの信号場をへた列車は進路を変えいつしか右手に町を見てS字状に山
を下ってゆく。これは北海道らしい、ダイナミックなものである。
 東北地方では奥羽山脈や北上山地、出羽山地を横切る線区が山越えとなる。川をさかのぼ
り、何度も川を渡り、峠付近でトンネルをくぐる、というパターンが多い。
 関東地方は平野ばかりなので、東京を出発した列車が隣の地方に足を踏み入れるときが、
山越えとなる。
 中部地方に目を転じると、篠ノ井線の姨捨付近が山越えをよく実感できる。こちらはむしろ山
からおりていくほうがよく、スイッチバックを楽しみながら、長野盆地を一望できる楽しみがあ
る。
 近畿地方では敦賀付近の北陸本線上り線ループであろう。トンネルが少ないことから、日中
は太陽を目印にしておくと、自分の乗った列車がまわってゆく状態がよくわかるだろう。
 中国地方は東北のような山越えが多いようだが、木次線出雲坂根の二回折返しスイッチバッ
がおもしろい。
 四国では、土讃線の四国山地越えだ。多度津方からでは二度の峠越えがあり、普通列車で
坪尻や新改でスイッチバックを体験。途中、大歩危・小歩危といった名勝も眺められる。
 九州に渡ると、やはり豊肥線立野肥薩線大畑・真幸のスイッチバックやループ線であろう。
どちらもスケールは雄大で、まさに「九州の屋根」を越えてゆく。代表的な山越えを並べてみた
が、実際に列車に乗るときは、地形図があると自分の位置や高さが素早くわかり、たいへん便
利なことをつけ加えておこう。また、どこがサミットなのかを見つけるのに欠かせないのが、線
路端の勾配標である。下り方面に対して左側に立っている白い標識で、数字表記のある二枚
の板が打ちつけてある。この数字が線路の勾配を表わすもので、単位はパーミル。1000メー
トル走って、何メートル登っているかが記されている。列車の進行方向に対して読みとれる、勾
配標の”腕”ともいうべき板が上を向いていれば上り勾配、逆なら下り勾配を表示している。通
常、25パーミルくらいになると急な勾配に分類され、貨物列車などが補機連結を必要としたり
する。さて、この勾配標が上向きのうちはモーター音なりエンジン音が迫力をもってうなるが、
一転して下り勾配になってしまうと、列車は軽快に山を駆け下りてゆく。モーター音もエンジン
音も、もう聞こえないほど小さくなってしまう。だから、列車で山越えをするときは、目と耳を研ぎ
澄まして、楽しまなくてはならないのである。
  ※記事の内容は1990年当時の状況であり2004年現在はこの限りではない。
  2004.鉄道記念日改訂
  ページ上へ

峠中心的年表
⇒(綴る量が増え、読みにくいとご指摘をうけ、別タブのページに)   2014.6.9
  ページ上へ

赤穂義士!?大野九郎兵衛

歴オタ的米沢藩相関図(年表の参考に 別タブのページ)

## @吉良家・上杉家 ##
1701(元禄14)年3月14日、江戸城本丸松の廊下で、浅野内匠頭長矩が高家筆頭吉良上
野介義央に刃傷。浅野内匠頭は即日切腹。吉良上野介はお咎めなし。これを不服とした赤穂
藩筆頭家老大石内蔵助良雄以下47士(48士説も)が吉良邸討ち入り、上野介の首級を挙
げ、泉岳寺へ。つい先年、討ち入り300周年で話題となった世に言う「忠臣蔵」である。さて、
その事件が「峠」とどうリンクするのか。それは吉良家系図を考証すれば分かってくる。
もともと吉良家はその祖を清和源氏とし、足利氏、吉良氏と続く。また、上野介の高祖母は、徳
川家康のおばにあたる。名門中の名門の出の上野介の嫁さんはやはり名家のお嬢さん。「越
後の龍」上杉謙信を藩祖とする米沢藩主綱勝の妹、富子(三姫)である。
さて、米沢藩主綱勝は若くして早世。世継不在お家断絶の危機に上野介は東奔西走。出羽米
沢30万石は半知15万石に減らされたものの、上野介の嫡男三郎を上杉の養嗣子として認め
られた。米沢藩主綱憲である。綱憲は嫡男吉憲を世継とし、次男義周を吉良家の養嗣子とし
た。義周は祖父・上野介の子となった。二重三重の関係を結んだことにより、吉良家・浅野家
の事件に米沢上杉家が巻き込まれる事態になった。
## A浅野家・大石家 ##
播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩はその祖を浅野長勝とする。長勝の養女”ねね”は豊臣秀吉
の室・北政所。長勝の娘婿長政は豊臣五奉行筆頭。秀吉とともに百姓から歴史の表舞台に上
ってきた土くさい大名。名家の吉良上野介と相容れなかったのはそのあたりか(無論、断定な
どできないが)。
大石家は内蔵助良雄の曽祖父の代から浅野家に仕え、大阪の陣で手柄を立て家老に。大叔
父の細君は浅野内匠頭のおば。吉良家・浅野家の事件は”昼あんどん”大石内蔵助を歴史の
大舞台に立たせた。
## Bかなり省略年表 ##
1701/03/14 刃傷事件。浅野内匠頭切腹。
1701/03/19 赤穂に早駕籠到着(大石内蔵助ら事件を知る)
1701/03/27 赤穂城で大評定(今後どうすべきか?)
1701/04/11 大石内蔵助、赤穂開城を決定。
1701/04/12 家老大野九郎兵衛、逐電。
1701/04/19 赤穂城明け渡し。浅野家再興と上野介処分を嘆願。
1701/11/10 江戸会議(来年3月討ち入り決行へ)
1702/03/14 内匠頭1周忌。討ち入り延期。
1702/07/28 円山会議(討ち入り決行へ)
1702/08/05 奥野将監、進藤源四郎脱盟。
1702/12/02 小山田庄左衛門、逐電。
1702/12/05 吉良邸茶会中止、討ち入り延期。
1702/12/14 吉良邸茶会、討ち入り準備。
1702/12/15 払暁、討ち入り。吉良上野介の首級を挙げる。
1703/02/04 赤穂浪士切腹。
170?/?/?  家老大野九郎兵衛、自刃?
## C検証・大野九郎兵衛の足跡 ##
大野九郎兵衛は後世、悪人に仕立てられた。武士の風上にもおけない不義不忠者として、と
きには吉良上野介以上の酷評である。
大野九郎兵衛は、勘定方の家老。合理主義の経済官僚。下級藩士や領民救済第一の大石
内蔵助とは意見が合わず、早い時期に出奔。奥野将監・進藤源四郎・小山田庄左衛門らもや
はり重役クラス。浅野家がだめならほかの家に再就職しようということで逐電。討ち入りに参加
した47士は、そのほとんどが再就職のおぼつかない、もしくは憤りを感じる平社員や古株の堀
部弥兵衛(77)ら。ところが、大野九郎兵衛には、討ち入り第2陣説がある。
大石内蔵助は、自分らの討ち入りが失敗に終わったときのために、大野九郎兵衛に後事を託
したというわけだ。吉良上野介は必ず我が子上杉綱憲のいる米沢に逃げるはず。その途中、
板谷峠に潜伏。吉良を討ち取るというプラン。しかし、見事大石内蔵助らが討ち入りに成功し
たと知り、大野九郎兵衛は47士の後を追い自刃。板谷峠に彼の墓と言われるものがひっそり
と建っている。
        
*大野九郎兵衛の墓とされるものは複数ある。群馬県碓氷郡(吉良の飛び地があった)磯部温泉の松岸寺・普門 
  寺。山梨県甲府市の能成寺。青森県東津軽郡今別村の本覚寺。宮城県白石市など。まだまだ研究の余地あり。
   2002.旧暦12.15 討ち入り100周年日改訂
   ページ上へ

峠駅の秘境駅ランキング 20位/日本全駅 
 『秘境駅へ行こう』というウェブサイトが立ち上がったのが1999年。サイト設立者にして秘境
駅の仕掛け人牛山隆信氏によれば、「一日の停車本数ができるだけ少なく、乗降客が限りなく
ゼロに近く、数少ない民家や道路とも離れていればいるほど秘境度が高くなる。」車掌さんに
「本当にここで降りるんですか?」と言われ、場合によっては待合室も風除けも照明もない場所
で一夜を過ごす。言ってみれば、駅前登山・駅前キャンプ。ただし、本当の登山と違うところ
は、自分の足で下山する必要がないという便利さ(普通に駅として考えれば不便なんだけど)。
秘境駅の楽しみ方は牛山氏著の文庫本やウェブサイトをお読みいただければ納得されると思
う。
 自分は秘境駅前で生まれ、そこから学校に通い、そこで仕事をしている。「あたりまえのこと」
だと思っていたのだが、21世紀に入ってからは、来店客に「えっ、ここに住んでいるの!」と驚
かれることがきわめて多くなった。「この感覚の隔たり」はどうしようもない。そもそも辺境に遊
びに来る人の大多数は、辺境に住んでいない。彼らが「不便」と感じることは、自分にとっては
「便利ではない」という言葉で片付けてしまう。

それはさておき、自分が初めて「秘境駅」という言葉に出会ったのは、2004年に『鉄子の旅』
という鉄道ルポ旅マンガに取り上げていただいた時だった。旅の案内人・横見浩彦氏は国鉄
線完全乗車・JR全駅下車達成のつわもので、鉄道趣味が高じてラジオにコーナーも持ってい
た方。そこで「秘境駅観光」というマニアックなジャンルがあることを知った。

そんなわけで2004年に初めて『秘境駅へ行こう』というウェブサイトにアクセスした。

赤岩駅 峠駅 大沢駅
2004年版秘境駅ランキング 15位 60位 133位

その5年後

赤岩駅 峠駅 大沢駅
2009年版秘境駅ランキング 12位 45位 117位

さらに5年後

赤岩駅 峠駅 大沢駅
2014年版秘境駅ランキング 8位 20位 91位


2011年の震災の影響もある。岩手県の岩泉線が廃線決定。「東の横綱」と言われた「秘境
駅・押角」が消滅したのはショックだ。復旧復興に向けて前進しているが、廃駅という現実があ
る。

2014年に入り「日本の人口問題に警鐘」が鳴らされている。「自治体の消滅」という言葉も歩
き始めた。「峠駅より上位の秘境駅が消滅している」のをまさに痛感している。

幸いにも当地は「辺境の地」というのを逆手にとって発信しており、小さいながらも観光地として
支持されている。感謝!
    

2014.6.27改訂
  ページ上へ