672(白鳳時
代) |
壬申の乱がおこる。天智天皇の遺子・大友皇子vs皇弟・大海人皇子(のち
の天武天皇)。近江・瀬田にて皇位継承をめぐる激突があったそのころ、大
和の騒乱など聞こえてこない北の方まだまだ未開の出羽の国ではのんびり
と ↓
|
このころ( 〃 ) |
登場人物 役小角(エンノオヅヌ)高名な人です。でもこの時点では修行の身
役「ジュゲムジュゲム、ナンタラカンタラアホンダラー エイヤーッ」
役「ふーっ。本日の修行はこれまでといたそう。では、晩飯の行者
ニンニクとヤマブシ茸を探しに行くとするか」
行者ニンニクと山伏茸 役小角の命名かは不明
(小角さんの周りを虻が飛び回っています。激しい修行で汗くさい。あれっ?でも、修行のひとつに滝に打たれるのってありますよね。ギクッ!ばれました!?小角さん、実は泳げないんです。水が怖い。それじゃーいつまでも、虻さんブンブンですよ。)
役「ハックション!………誰かがわしの噂しとるな。『流れる汗がキラキラ輝いてかっこいい』なんてな。フフフッ」
(違うーッ流れる汗がクサイんですよ小角さん)
役「はっ鼻血が。いかんいかん。あんな事やこんな事を考えてしまった。………ムムッ!山の中から五色の煙が立ち昇っておるではないか。誰かが飯を炊いておるのか」
(あわよくば飯にありつけるのではという期待を胸に煙のほうへ歩いていきます………そして)
役「おやっ、湯が湧いておる。炊煙ではなかったのか。いやいや、 疲れたカラダには湯こそがなりよりのご馳走だ」
(小角さんはさっそく湯の中へ。そしてそのままコックリコックリ、鼻ちょうちん。汗くさいのもとれ、虻さんもさようならで大団円)
⇒役小角(エンノオヅヌ)が山中に五色温泉発見
(女体禁制?の修験者が発見したのが子宝の湯というおもしろい展開)
*この物語は半分以上フィクションであります |
1185年〜 |
長門の国壇ノ浦にて平氏滅亡。ご存知、源義経は兄との溝が深まるばかり。こののち吉野にて静御前と離別。佐藤継信すでに亡く、忠信とも別れ、伊勢の三郎は鈴鹿で自害。弁慶や喜三太と共に平泉に逃れ… |
1187(文治3)年 |
登場人物
体は奥州、心は吉野。空蝉状態、ピントがずれているボケ担当≫義経
義経四天王の生き残り。鎌倉なにするものぞのツッコミ担当≫武蔵坊弁慶
最近異国に関心を抱き外来語をまくし立てるボケもできるツッコミ担当≫喜三太
この物語の本当の主人公≫傷ついた猿
5代目の暴走する脚本に歯止めをかけて、スキッとまとめようぜ≫語り部
語「義経一行は平泉に落ち着くものの、鎌倉と奥州は対立が続きます。奥州藤原氏当主秀衡は病の床。鎌倉方は虎視眈々と奥州攻略を図っています。義経主従は、鎌倉軍防衛のため、前線になるであろう羽前・岩代国で戦支度の真っ最中」
(そして舞台に義経主従登場)
喜「御大将!兵糧、馬具着々とそろっております。あとは兵たちのトレーニングにカウンセリングでござるな」
弁「左様。御館様が床に臥されており、兵どもの士気を上げる策を早急に考えなければなりませぬ。」
義「何がよい?武功第一は米沢牛食べ放題とか」
喜「陸奥のりんご。羽後のきりたんぽ。陸前そば。陸中の牡蠣…。 どれもうまそうだ。いっそのこと我等で奥州をのっとりますか」
弁(最近、頭痛のたねに困らない。御大将!生気を取り戻してくれ)
弁「真面目に考えてくだされ。喜三太も悪乗りするでない」
喜「すまんすまん。兵たちのトレーニングは御大将の18番でござるが、やつらのメンタルとホスピスが問題だ」
弁「喜三太!異国の言葉を使うな頭痛がする」
喜「武蔵坊、もっと視野を広げろよ。ジパング国内にこだわらず大 陸に渡るって手もある。モンゴルとかいう国は今乱れてるらしいぜ。御大将さえその気なら大陸に進出するのもいいだろうよ」
弁「おぬしのその言葉、”もんごる”とかいう国で通じるのかいな」
義「そういえば羊なる獣の肉がうまいとか。よし、羊の食べ放題で兵どもの士気を高めようぞ」
弁「御大将ッ!見たこともない獣の肉で士気が高まりますか。真面 目に考えましょうよ〜」
語「鬼…いや弁慶の目にも涙。鎌倉殿との確執を考えれば義経様 の空虚さにも多少の同情を禁じえないのですが…」
(和気藹々?の御一行。軍備も兼ねた領内視察の途中の出来事)
猿「いやあ、まいった。世に”吾妻の白猿”美人猿と詠われているのを鵜呑みにして出かけたら、おばばばっかり。おまけに尻なでただけでひっかきやがって。ブツブツ…」
語「プレイボーイを自負する猿は、知る猿ぞ知る隠し湯へ。そし て、隠し湯が人間に知られてしまうのです」
喜「武蔵坊!あれを見ろ。モンキーが湯浴みしてるぜ。全身傷だ らけだ。お前さんそっくりな暴れもんだな」
弁「我らも入ろうではないか。そうだ!戦の後に怪我の療養所としてここを使ってはどうだろう」
喜「グッドアイディ〜ア!御大将はいかが思われるか?」
(二人の会話は耳に届かず。心は静御前のことででいっぱい。話を振られて周章狼狽)
義「なにっ△☆○?! そうだな猿の食べ放題もいいな」
弁・喜「御大将〜っ!!」
⇒体に深傷を負った猿が湯につかり傷を癒しているのを、源義経の家臣が発見 →湯ノ沢温泉が人に知られる
*この物語は9割がたフィクションであります。米沢牛などこの時代にありません。完全に脚本家の暴走です。史実は義経の家臣が湯の沢温泉を発見したらしい、ということのみ。 |
1530年頃 |
1521年武田信玄生誕。1530年上杉謙信生誕。応仁の乱このかた風雲急を告げる下剋上の嵐のなか、そんな血なまぐさい風のふかぬここ東北の山奥で ↓ |
1533(天文2)年 |
登場人物
謎の山姥
鉱物が好物、山歩きが大好きな遠藤さん
語「時は戦国の世。各大名、”いくさ支度も金しだい”当然奥羽米沢にも金脈はないかと山に入る人もいたのです。そのなかの一人遠藤さんは前川を遡上、今の姥湯の地にやってきて(当然当時流の登山装備だったはず)、婆さん(山姥は軽装だと思い込むのは私だけ?山姥に厚着は似合わない。厚着でいいのはナマハゲだと思う)に出会ってしまったのです」
遠「婆さん、こんな山奥でなにやっておるね?」
姥「わしゃ、何百年もこの地でお前さんが来るのを待っておった」
遠「あっ、あっしをですかい!?」
姥「そうじゃ。お前さんがなかなか来ないからすっかりばばあになってしまったわい」
遠「ヘッ!?」
姥「まあええ。よう聞け。この地に湯が噴き出しておる。後の世に きっと人さまの心と体とを癒し、捕らえることになるじゃろう。その時まで、この湯を子々孫々まで守り続けるのじゃ」
遠「なんであっしが…」
姥「ンッ!なんぞ言うたか」 〔ギロッ〕
遠「いっ、いやなんも。おめえさまの言うとおりしますだで。食わんでけろ。なんまんだぶ なんまんだぶ」
語「山のガレ場で何を食べつつ遠藤さんを待ち続けていたのか。この後どこに消えたのか。誰も知らない。(熊に食われたか)」
⇒謎のばあさんのにのお告げによって姥湯温泉発見
*この物語は半分フィクションであります。今の遠藤さんは17代目。お告げを守ってずーっと湯を守ってこられたことにただただ敬服。
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16世紀後半
(天正年間) |
板谷峠越え街道が造られる
(羽州街道、福島街道、板谷街道とも呼ぶ)
≪宿場≫
・板屋宿(今日の板谷駅周辺)
・石仏宿(今日の大沢駅周辺)
(※米沢街道と呼ばれる街道は米沢―桧原湖のルート)
当時の領主伊達氏は出羽の最上氏や会津の蘆名氏と盟約や合戦をくりかえし、そちら側の街道は整備が進んでいったものだが、こちらの街道は馬一頭ほどの道幅のままだった。 |
1584(天正12)年 |
伊達政宗家督相続(米沢城主に) |
1589(天正17)年 |
磐梯山麓 摺上原の戦い
米沢城主伊達政宗 会津を征服 居城を会津に移す |
1590(天正18)年 |
豆知識 米沢城主伊達政宗が豊臣秀吉に謁見するための小田原参
上の前夜街道沿いの大沢大小屋集落 伊達政宗に酒を献上 |
1590(天正18)年 |
豊臣秀吉の奥州仕置
伊達政宗から会津を没収。
伊勢松坂城主蒲生氏郷⇒会津若松城主に
伊達政宗 米沢城に戻る |
1591(天正19)年 |
伊達政宗 米沢も没収される ⇒岩出山城主に(のち仙台へ)
伊達氏の米沢統治十代212年で終わる
蒲生氏郷家臣 蒲生郷安米沢城に入る |
1595(文禄4)年 |
会津若松城主蒲生氏郷病没
後嗣蒲生秀行はまだ13歳 |
1598(慶長3)年 |
会津若松城主蒲生秀行 宇都宮に移る
蒲生氏の米沢統治二代7年で終わる
越後春日山城主上杉景勝⇒会津若松城主に
豊臣秀吉の特旨により直江兼続 米沢城主に |
1600(慶長5)年 |
関ヶ原の戦い
米沢上杉家は西軍として山形最上家、仙台伊達家と合戦 |
1601(慶長6)年 |
会津若松城主上杉景勝 米沢30万石に減封
初代藩主 |
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豆知識 関ヶ原の合戦後、京で隠棲していた前田慶次が上杉家に仕官
するために米沢に戻るとき、石仏宿(今日の大沢駅周辺)に宿泊 |
1614(慶長19)年
1615(慶長20)年 |
大阪の陣に2代藩主上杉定勝参陣 |
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参勤交代制度の確立
板谷峠越え街道に石畳が敷かれ米沢藩主はこの街道を通って、江戸へ参勤したと言われる |
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3代藩主上杉綱勝の妹参姫 吉良上野介に嫁ぐ
上杉家・吉良家三重の縁@ |
1664(寛文)4年 |
3代藩主上杉綱勝 吉良上野介邸にて饗応を受け、腹痛激しく数日後に急逝(27歳)
上杉家断絶の危機 綱勝の義父・会津藩主保科正之(徳川家光弟)のあっせんが功を奏し吉良上野介の子 三郎喜平次を養子とした
上杉家・吉良家三重の縁A
養子届出不行届で30万石から15万石に半減 |
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上杉喜平次は元服ののち4代藩主上杉綱憲と名乗る
綱憲二男義周を吉良上野介の世継ぎとする
上杉家・吉良家三重の縁B |
1701〜03年 |
「時は元禄14年〜」 世に言う『忠臣蔵』の松の廊下刃傷
後日、赤穂藩筆頭家老大石内蔵助らが吉良上野介を討つ。吉良と米沢上杉藩は三重の縁であったため、吉良が米沢に逃げ込む恐れを考えた赤穂藩次席家老大野九郎兵衛は国境である板谷峠に潜伏し吉良が逃げてきた場合に備えていたという。 |
1740年頃 |
徳川幕府・米将軍吉宗の治世も晩年、混迷する政治経済。一揆・打ち壊しの波及するなか、それはそれとて姥湯でのんびり楽しんだあるひとりのほろ酔い気分の郷士が ↓ |
1742(寛保2)年 |
登場人物 お酒があれば人生バラ色・斎藤さん
(姥湯で湯治を楽しんだ斎藤さん。現代のような峠地区から萱峠・ 滑川のルートは切り開かれておらず、当時は、板谷宿⇒五色温 泉⇒[川を遡って]⇒姥湯温泉というルート。なんといっても360度断崖絶壁・天涯の湯姥湯。お酒のほうも五臓六腑に染みわたり、意気乾坤。クマがでようが槍が降ろうがなんでもござれ)
斎「花のや〜ま〜が〜た〜。$%”#!ヒック!?
ヤッショ〜マカショ〜、シャンシャンシャン〜ウィイ〜」
(思わず口ずさむ花笠音頭。音階バラバラ。本人上機嫌)
斎「たしかにええ湯じゃったが〜ヒック。背中を流してくれたのがピ チピチギャルじゃのうて、シワシワのばばさまっちゅうのは納得いか〜ん。ピチピチギャルに全身みがいてもらいたかったのに〜シクシク」
(あれ〜、この人泣き上戸ですか〜)
斎「ウ〜、混浴だったのにシワシワのばばさましか……ブツブツ …??アレ〜ッ」
(ツルツル川石、千鳥足滑って、ひっくりかえって、おでこをゴッチン☆!!)
(てゆうか〜。斎藤さん!おでこから血が出てる。お〜い、このよっぱらい笑っとる。気づいておらんぞ)
斎「おんや〜。なんだかこの石、女子の柔肌ようにあったけ〜ぞ 〜!?」
(おもわず石に抱きつき………。こらこら、石に接吻してどないするん。)
斎「酔ってても、わしゃ正気じゃ!湯脈があるぞ〜。」
斎「まてまて。これはうまくやれば温泉のオーナーだぞ!!」
(酔いもスッカリさめて、頭の中はフル回転。ニヤニヤニタニタの斎藤さんは近くで見てるとけっこう怖い)
川を遡行中、滑って転んで触った石が温かい
⇒「湯脈があるぞ〜!!って、だれも聞いちゃいないかヒック」ということで、滑川温泉発見
*この物語は半分フィクションであります。 |
1767(明和4)年 |
上杉治憲が9代藩主となる(上杉鷹山)
(日向高鍋の生まれで江戸住まい 米沢にはまだ一度も足を入れず) |
1769(明和6)年 |
上杉治憲 板谷峠越え街道を通り初の米沢入部 |
1871(明治4)年 |
廃藩置県 7月米沢県成立
県統廃合 11月置賜県成立 |
1876(明治9)年 |
県統廃合 山形県成立
初代県令 三島通庸、県内に多くの新道を開設し始める |
1881(明治14)年 |
栗子新道開通 ↓ |
1882(明治15)年 |
明治天皇の東北巡幸
栗子新道に「万世大路」の名を賜う (第1世代)↑ |
1892(明治25)年 |
6月 「鉄道敷設法」公布
国防上の理由で、内陸部を走り日本海側と結ぶ奥羽本線敷設は重要視された |
1893(明治26)年 |
青森側から着工。順次南へ延伸。 |
1894(明治27)年 |
奥羽北線〔青森⇔弘前〕開業(少しずつ営業路線南下) |
〃 |
福島側からも着工。順次北へ延伸。 |
〃 |
(江戸中期)街道峠筋に「助け」という茶屋が2軒あり、上杉藩より扶持米を戴き、峠越えに難儀していた旅人に食を供していた。
↓↓
(明治27年)上記茶店の「あるじ」と遠縁の(5代目からみて高祖父にあたる)当店初代が「助け茶屋」を継承。”峠の茶屋”としてリニューアルオープン(※この時をして現在の茶屋の創業とする)。その後、同地で始まった鉄道敷設工事に参加。
休日など茶屋自慢の餅を僚友にふるまったりしてちょっとした著名人に |
1899(明治32)年 |
奥羽南線〔福島⇔米沢〕開業(少しずつ営業路線北上)
板谷・峠 スイッチバック式停車場 大沢・赤岩スイッチバック式信号所
イギリス産山岳用蒸気機関車B6形の時代
※以降、国内屈指の山岳路線ゆえ技術の粋を集めた機関車
を次々投入。そのたびに旧機(従来機)は、より勾配の楽な
部署へ配置換えとなった。
(福島-米沢間40,7km 所要時間2時間36分) |
〃
|
5月15日 峠駅開業 |
〃
|
・万世大路と鉄道の運用開始に伴い「板谷峠越え」は廃道に
・鉄道工事終了、旧街道廃止により、初代と店も旧街道より峠駅前に移転。ちょっとした著名人となっていた初代は、峠駅初代駅長に薦められ、「餅の駅立売り」で次の身を立てることとし開業準備を始める
・鉄道開業で峠駅前に人家が増える。ただし、鉄道以外はつづら折りの
狭隘路しかなく、鉄道が停まると「陸の孤島」となる |
1901(明治34)年 |
5月11日 ”峠の力餅”の峠駅立売り営業開始 |
1905(明治38)年 |
秋田県内〔横手⇔湯沢〕開業で北線と南線合流。奥羽本線全線開通 |
1906(明治39)年 |
日露戦争終結 戦時体制から平時へのダイヤ改正
国産蒸気機関車F1形→F2形+イギリス産B6形の時代 |
〃 |
12月25日 大沢信号所→停車場に昇格 |
1908(明治41)年 |
豆知識 9月鉄道にて東北路御巡幸の皇太子殿下(後の大正天皇)が車窓より売り子姿の初代を呼び、御自ら力餅をお買い上げの光栄を賜ったことが、初代最大の名誉であると子々孫々に口伝されている |
1910(明治43)年 |
10月13日 赤岩信号所→停車場に昇格 |
1912(大正元)年 |
|
1913(大正2)年 |
名機 ドイツ産山岳用マンモス蒸気機関車E4100形板谷峠に投入 |
1917(大正6)年 |
名機 E4100形の国産化 E4110形蒸気機関車の時代
(電化まで30数年板谷峠で働いた名機) |
1924(大正13)年 |
豆知識 1月14日忠義犬ハチ公が出身地秋田大館から急行の
貨物車で板谷峠越えして上京したといわれている。 |
|
大正時代に入り、東北を横断する路線が次々開業。
福-米間への輸送依存度が低下してくる。 |
1926(昭和元)年 |
|
昭和初期 |
鉱山開発と鉄道輸送の時代
板谷駅から ゼオライト
峠駅から 滑川鉱山鉄鉱石
大沢駅から 硫黄
関根駅から 石灰
鉱物資源の輸送が増えてくる |
1937(昭和12)年 |
万世大路「昭和の大改修」竣功 (第2世代万世大路) |
1941年 |
板谷鉱山ゼオライト出鉱(坑内掘り) |
1941年頃 |
戦時体制の中、滑川鉱山で鉄鉱石採掘本格化
(福岡八幡製鉄所にて軍備材料となり) |
1945(昭和20)年 |
終戦 |
1946(昭和21)年 |
福島-米沢間 電化工事着工も当時は連合軍総司令部民間運輸局の許可がなかなか下りず、1948年にやっと工事再開となる
戦時下で酷使されたE4110形蒸気は老朽化いちじるしくも、電化工事が遅れ、補機に特化したE10形蒸気機関車を急造。しかし性能はいまひとつだった。 |
1949(昭和24)年 |
4月福島-米沢間 直流電化
山岳用機EF15形電気機関車をもってしても板谷峠は難所。年間300件ものブレーキトラブルがおき、機関車の改良を検討 |
1950(昭和25)年 |
9月5日 磐梯朝日国立公園指定 萱峠より奥、滑川姥湯も国立公園内 |
1951(昭和26)年 |
名機 ブレーキ性能をあげたEF16形電気機関車の時代
(福島-米沢間 所要時間1時間06分) |
1950年代〜 |
戦後、ウインタースポーツさかん。峠スキー場も活況。
冬季、電車が来ない間は「正真正銘の陸の孤島」それはつまり、電車待ちのスキー客にあらゆるものが売れた時代でもあった |
1950〜75年 |
「集団就職」 秋田・山形から奥羽本線に乗って見知らぬ東京へ就職。
板谷峠は山形県の出口として「哀切な物語」も多々あった模様 |
1959(昭和34)年 |
登山ブーム黎明期
峠駅〜滑川温泉 山形交通のバス就行
(なお、このバスは貨車積みで峠駅に参上) |
1960〜70年代 |
第1次登山ブーム(登山というものが信仰からレジャーに変化した頃) |
1961(昭和36)年 |
特急「つばさ」登場 |
1963(昭和38)年 |
板谷鉱山ゼオライト露天掘り (階段採掘法) |
1964(昭和39)年 |
輸送力増強のため山岳機EF64形を配置
特急「つばさ」・「やまばと」をけん引 |
1965(昭和40)年 |
特急「やまばと」登場 |
1966(昭和41)年 |
現・国道13号「栗子ハイウェイ」開通 (第3世代万世大路)
(第2世代万世大路栗子隧道付近は廃道に)
新道開通により鉱物の鉄道輸送度も低下してくる |
1968(昭和43)年 |
板谷峠のピーク地点から峠駅までの市道322号峠峰越線開通
とりあえず夏場の陸の孤島化は解消される
(ただし、板谷峠越え街道は廃道扱いなので狭隘路のまま) |
1968(昭和43)年 |
9月 福島‐米沢間 交流電化切替 信号自動化
庭坂‐赤岩間および大沢‐関根間複線化
名機 EF71形+ED78形電気機関車の時代
交流電化から標準軌化まで約22年間働いた
(福島-米沢間 所要時間42分)
10月 「ヨンサントウの白紙改正」 |
1970(昭和45)年 |
寝台特急「あけぼの」登場 |
1970年頃 |
滑川鉱山閉鎖 |
1980(昭和55)年 |
度重なる陳情の末、廃道扱いの板谷峠越え街道の道路拡張舗装工事なる
|
1980年代 |
板谷峠越え街道拡張舗装工事に合わせたかのようにマイカーブーム
到来。4WDの登場以降、姥湯・滑川温泉が身近になる。 |
1982(昭和57)年 |
東北新幹線開業 |
1984(昭和59)年 |
国鉄の合理化に伴いスイッチバック4駅その他が無人駅となる |
1985(昭和60)年 |
特急やまばと廃止。
↑たくさんの寄贈写真があるものの、「やまばと」はこの1枚のみ。
木造客車廃止。
↑木造客車立売りは4代目まで。5代目はまだ小学生だった時分。 |
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↑寝台特急あけぼの 1990年の改軌工事以降は上越・羽越経由に |
1987(昭和62)年 |
国鉄民営化〔JNR⇒JR]
福島‐山形間「新幹線・在来線直通運転計画」のモデル線区となる |
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↑イベント列車「冬将軍号」 年末年始の「熊野様詣で」で盛況を醸した
(板谷峠が狭軌であり、現在のフラワー長井線が国鉄であった当時は各始発駅から熊野大社のある南陽市宮内駅まで直通で運行できた)
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1990(平成2)年 |
”日本の滝100選”選定
「滑川大滝」 |
1990(平成2)年 |
8月31日 スイッチバック最終日
↑「おわかれスイッチバック号」は連日満員の大盛況だった
9月 1日 改軌工事開始
*特急つばさ一部廃止。新幹線開通後全面廃止。
*寝台特急あけぼのは上越・羽越本線経由に
*寝台急行津軽は東北・仙山線経由に
*貨物列車も東北本線経由に |
1992(平成4)年 |
↑かつて走っていた特急つばさ その名を山形新幹線が引き継いだ
山形新幹線つばさ開業 |
1990年代〜 |
↑近くて遠い米沢市O温泉露天風呂にて
秘湯ブーム。(とやらで、秘湯が本当の意味での秘湯でなくなっってきた) |
1996(平成8)年 |
文化庁 ”歴史の道百選”選出
「NO.11米沢・福島街道‐板谷峠越え」
「NO.12万世大路‐栗子峠越え」 |
1997(平成9)年 |
↑豪雪地帯ゆえ施設保存運動もかなわず、旧峠駅は解体される |
2000(平成12)年 |
「さよならスイッチバック」から10年! |
2001年 |
5代目 外遊を終え、家に入る
当ウェブサイト立ち上げ |
2002(平成14)年 |
山形新幹線開業から10年! |
2005年あたり〜 |
鉄子ブーム(スイッチバックイベントでは撮り鉄とたくさん出会ったが、乗り鉄はけっこう違うのねと実感)
↑鉄道を素材に漫画にするのはとても大変なことだったと思う。 |
2008年あたり〜 |
登山ブーム(らしいけど、現代の商業登山ブームでは山に格差がはっきりと⇒ってことで、少数派に向けて「5代目の山岳迷走記」を発信) |
2009(平成21)年 |
『天地人』戦国武将ブームで城下が盛り上がっているなかひっそりと
経済産業省 ”近代化産業遺産群 続33”選定
「板谷峠のスイッチバック遺構」
「栗子隧道」 |
2010(平成22)年 |
デコピカの丸みのあるボディーで愛された
4月 山形新幹線400系引退 |
2010(平成22)年 |
「さよならスイッチバック」から20年! |
2011(平成23)年 |
3月11日発生の東日本大震災以降約1か月電車が不通。駅で立ち売りをおこなえず。またガソリン等燃料の確保できず |
2012(平成24)年 |
山形新幹線開業から20年! |
2012(平成24)年 |
土木学会 ”選奨土木遺産”
「万世大路」 |
2012年12月1日〜2013年3月25日 赤岩駅 冬期全列車通過(下車不可)
「赤岩駅の秘境度があがる」 |
2013年12月1日〜2014年3月25日 赤岩駅 冬期全列車通過(下車不可) |
2014年? |
富士山・日本食・富岡製糸工場などの「遺産ムーブメント」のなか
当地にも「遺産ツアー」の流れが?? |
2014年 |
東北中央自動車道 新栗子トンネル(仮称)貫通
(第4世代万世大路)となる予定 |
2014年7月 |
足湯新幹線 『とれいゆつばさ』 運転開始 |
2014年10月 |
台風の接近に伴いJR西日本で初めての大規模で本格的な計画運休が
行われた。
その後、計画運休について賛否両論様々な意見が出た。 |
2014年12月1日〜2015年3月25日 赤岩駅 冬期全列車通過(下車不可) |
2015年12月1日〜2016年3月25日 赤岩駅 冬期全列車通過(下車不可) |
2016(平成28)年 |
↑寄り目のE3系1000番台 ↑吊り目のE3系2000番台
9月山形新幹線E3系グリーン&シルバーカラー車両が引退 |
2016年11月30日 下記の発表により「結果的・実質的に赤岩駅営業最終日 |
2016年12月16日 「赤岩駅は通年全列車通過が決定」とアナウンスされる
これにより廃駅はほぼ確定か |
2017年11月4日 東北中央自動車道「福島大笹生IC〜米沢北IC間」開通
(第4世代万世大路という位置づけ。県境の集落はますます
ストロー現象が深刻化することが予想される) |
2017年夏 |
板谷峠にECO風力発電計画発表 |
2018年 |
国土交通省と鉄道各社は計画運休に関する検証会議を開催
安全確保の上で必要という認識が共有された
⇒脊梁山脈を横断する奥羽本線福島〜米沢間は大雪または
規定雨量に達することも多くこののち計画運休の頻度が上がる |
2019年 |
(板谷峠)ECO風力発電所建設開始(羽根最高地点まで120mの高さ) |
2020年早春 |
米沢市板谷にブランド「天元豚」養豚場移転発表 |
2020年〜 |
いわゆるコロナ禍。感染拡大防止策として「不要不急の越境する動きを自粛するように」とアナウンスされると、駅に立ち売りに行っても電車乗客ゼロが続き(鉄路自体が越境路線ゆえ!)、車にて県境エリアにある当店への来店もゼロ。過去経験したことのない身悶えんばかりの日々が続く。 |
2020年春 |
米沢市板谷 養豚場整備開始 |
2020年8月 |
「さよならスイッチバック」から30年! |
2020年12月 |
前年の板谷峠トンネル内の通信圏外解消に続き、最後に残った(峠〜大沢間の)圏外が解消される⇒国内の新幹線区間のすべての圏外が解消される)[通信インフラ] |
2020年12月 |
(板谷峠)『いちご米沢板谷ECO風力発電所』 運転開始 |
2021年3月12日 |
駅周辺居住者0の「すごい秘境駅」赤岩駅の廃駅 |
2021年4月 |
(米沢市板谷)『(有)村上畜産新養豚場』 稼働 |
2021年5月 |
コロナ禍で電車は閑散ではあるが峠の力餅 駅立ち売り120年 |
2022年春 |
3月12日 ダイヤ改正
福島駅アプローチ線新設工事に伴い、在来線 福島〜庭坂駅間
バス代行輸送(日中帯)
3月16日 福島県沖地震発生
福島〜白石蔵王間で 東北新幹線脱線、設備被災甚大
17日午前(峠駅を含む)仙台支社管内全線運転見合わせ
東北新幹線 減便運行 東京〜那須塩原、盛岡〜新函館北斗
運転見合わせ区間 那須塩原〜盛岡
山形新幹線 新庄〜福島折り返し運転
同22日 東北新幹線 那須塩原〜郡山、一ノ関〜盛岡間運転再開
残る運転見合わせ区間 郡山〜一ノ関まで縮小
地震による影響で3月24日、31日予定の『とれいゆつばさ』山形発
仙台行きラストランが中止
同27日、新庄発福島折り返し山形到着『とれいゆつばさ』
が文字通りのラストランとなる
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@コロナ禍による乗客減
Aバス代行⇒乗換回数増所要時間増により
在来線乗客の減が予想される
ダメ押しに
B地震被災で
東北新幹線福島駅下車在来線で峠駅到着
の旅程が立たず
今しばらく辛抱が肝要
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4月2日 東北新幹線 郡山〜福島間運転再開
残る運転見合わせ区間 福島〜一ノ関まで縮小
山形新幹線減便ではあるが東京直通運転再開
4月4日 東北新幹線 仙台〜一ノ関間運転再開
残る運転見合わせ区間 福島〜仙台
4月14日 東北新幹線全線運転再開
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2022年夏 |
山形新幹線開業から30年! |
2022年7月 |
(米沢市滑川) 東北最大級「滑川大滝」へのつり橋復活 |
2022年8月 |
8月3日〜4日 新潟山形県境に線状降水帯発生
数十年に一度の猛烈な雨で最上川越水
大雨特別警報発表(レベル5)
峠駅周辺は最上流部のため目立った被害はないが電車運休
車道は通行止め措置 |
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2023年1月10日〜3月26日 |
板谷駅・大沢駅 冬季通過扱いへ |
2023年4月 |
(峠駅から徒歩5分) 一棟貸しの貸し別荘『ECHO』オープン |
2023年5月 |
(福島市李平)『吾妻高原風力発電所』9基運転開始
国道13号米沢から福島へ東進。西栗子トンネル出口から遠望できる |
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(米沢市板谷近辺)『(仮称)栗子山風力発電事業』10基計画 推進中
稼働中の『いちご米沢板谷ECO風力発電所』4基
『吾妻高原風力発電所』9基 と合わせ風力発電団地化する!? |
2024年10月 |
五色温泉が温浴施設付きキャンプ場として再整備 オープン |
2024年1月10日〜3月26日 |
板谷駅・大沢駅 冬季通過扱い |
2024年3月16日 |
ダイヤ改正 山形新幹線E8系 デビュー |
2024年9月 |
『(仮称)栗子山風力発電事業』取り止め決定 |
2024年10月31日 |
12月1日より「大沢駅は通年全列車通過が決定」とアナウンスされる
これにより廃駅はほぼ確定か |
2024年12月1日〜2025年3月26日(予定) |
板谷駅冬期間全列車通過 |