登場人物―峠の茶屋 自己紹介 ![]() ## ―目次― ## ・こんな場所のこんな店です →GO ・よくある質問 →GO ・駅立売り(車窓販売)文化を残したい‐5代目熱く語る →GO ・重箱の隅 (どうでもいいような、よくないような) →GO ## こんな場所のこんな店です ## 本日は山ん中のちっぽけなお店に興味を持っていただき、まことに有難うございます。 このサイトの製作・脚本・出演者である私、[絶滅寸前の「駅ホーム立売り販売」の最後の砦 たらん と嘯くそんぴん5代目]であります。ちっぽけな店なもので、せめて肩書きだけでも大 風呂敷を広げることご了承願います。駅の名前が「峠」というところに住んでいます。「峠」の前 に「碓井〜」や「三国〜」といった冠がつきません。場所は東北地方福島県福島市と山形県米 沢市の接する「板谷峠」という県境の峠近辺で「板谷」駅以外に「峠」駅があるんです。ちとやや こしいかもしれません。明治のころの話です。鉄道を敷くことになり、板谷という集落内に駅が でき、駅名が「板谷」になったのは理解しやすいですね。ところが、もうひとつ駅を造る必要が あったんです。端折って言えば、当時の蒸気機関車の馬力が小さく、また今で言うところの燃 費が悪かったため、石炭・水の補給基地が必要だったのです。その場所はこの路線最高地 点からわずかのポイントで、水の確保ができる谷筋。急峻な傾斜地であり、集落などありませ んでした。その谷川の一部にヒューム管を並べ、そのうえに鉄道トンネル掘削工事の残土を 積み上げ平地として養生させ、スイッチバック構造の駅を造ったのです。そんなわけで旧峠 駅前の地下には暗渠川が横断しています。で、当時の人たちがどれほど真面目に検討し、駅 名候補がいくつあがったかわかりませんが、結果「峠」という可もなく不可もなしの駅名になっち ゃったんですねえ。
さて、集落もなにもない場所にできた駅。とはいえ、駅ができて100年以上たてばなにかしらで きてきます。さらに山奥の温泉までの道路も整備されましたし、スキーブームの時代は駅前が ゲレンデとして利用され電車でスキー客が訪れていました。ご来店された方から「運転がたい へんだった」とのお声をいただきますが、なにぶんまず鉄道ができたあとに自動車道が整備さ れたもので…このようなすばらしい九十九折り車道となりました。みなさん、その足元・土の中 を山形新幹線が通ってますよ! そんな環境で生まれ育った自分は、この先の展望いかにして峠駅前を盛り上げるか日々思考 錯誤。「湯治(温泉)・登山(吾妻連峰東エリア)・トレイン(かつての4駅連続スイッチバックの 遺構)」の峠の3本柱に続けと、「峠の土を焼いてみよう」と模索をはじめた「生まれも育ちも 峠駅前の峠居人」であります。 峠の3本柱などと勝手に位置づけていますが、自分は温泉経営者ではなく、登山家でもなく、 鉄道写真家でもありません。陶芸家でもありません。山の中の餅屋にして肩書きは[絶滅寸前 の「駅ホーム立売り販売」の最後の砦たらん と嘯くそんぴん5代目]なんです。
前置きが長くなってしまいました。ここからがお店の自己紹介です。江戸時代、当地米沢の藩 主は上杉氏でしたが、ライバル伊達氏との国境羽州米沢街道の板谷峠に茶屋がありまし た。茶屋ではありましたが、国境ということもあり、関所的なお役目もあったのかもしれません。 米沢藩から「藩扶持米」をいただき、餅を作って道中往来の旅人に提供していたとききます。 武士の時代が終わり明治も20数年たった頃、当店初代にあたる者が縁あってこの茶屋を取 り仕切るようになりました。茶屋自体は江戸時代に複数軒構えてあったようですが、区切りとし て、自分の血をさかのぼったこの初代が茶屋を継承した明治27年が創業年としています。そ の後、初代は奥羽本線敷設工事の難所福島〜米沢間工事に従事。工事の合間に茶屋自慢 の大福餅を人足うちでふるまっていたと聞きます。鉄道開通と同時に居を街道筋から鉄道筋 (峠駅前)に移し、「大福餅ぶるまい」の話を聞いた初代峠駅長の助言をいただき峠駅にて” 峠の力餅”を販売するようになりました。営業開始にあたって屋号を「最上屋」としたのも当 地が奥羽本線最高地点であり、山形の母なる川最上川の一源流だったからです。当時は今み たいな車道も拓かれてなく、鉄路と「そま道」のみのまさに”陸の孤島”。自分の足以外では鉄 道が唯一の交通手段でした。時は移り100余年。峠駅のさらに奥の秘湯まで車道も拓かれ、 車にて訪れる方が多くなりました。汽車の窓越しの販売が主であった時代から、車などで直接 来店される時代に変わり、また来店されるかたも近在の県から関東・関西まで広がっている ことなどから「最上屋」から「峠の茶屋」に戻しました。お客様が交流される店でもありますか ら「峠の茶屋」のほうがフレンドリーな感じを受けられるのではないでしょうか。 只今、峠部落は2世帯全人口10人+秘湯「滑川」の専従者寮、「姥湯」の集荷所、イヌも 同じくらいいるかな。サルやカモシカは、その何倍か。あまり会いたくありませんがクマさんも住 民(?)なのかなあ。もっとも、私が生まれたときすでに3世帯。でも、過疎の集落という表現も ピンときません。なぜなら、この環境が当たり前として育ちましたから。上述したとおり、もともと この峠駅というのは、集落があってできた駅ではないのです。明治32年奥羽本線開業。当然 動力は蒸気機関でしたが、この辺りは蒸気機関車が重連して臨むほどの急勾配路線。 「板谷駅」から次の集落のある「大沢駅」までパワーと燃料が足りない。石炭や水を補給して 一息入れるために山の中に造ったのがこの駅なのです。もちろん人っ子ひとりおりませんで した。駅ができてからこの地に住む家ができたわけです。ちょっと不便ですが、100年たった 今は当時に比べるとはるかに生活しやすい。当時は道路が拓かれてなかったから、汽車が止 まると文字どうり”陸の孤島”。冬になると10日やそこらの運休もあったとか。それでもこの地 で商売を続けたご先祖にはただただ頭がさがるのみ。
山形新幹線で”峠の力餅”を販売しているのをご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、その製品は、当店で卸し ているものでなく、米沢の別の店で製造販売しているものです。あちらはあちら、こちらはこちらで製造販売しており ますので、餅米・小豆から違います。また、餅は、餅米と水のみでできるものですから、水の質の違いが即、味の違 いになるのはおわかりいただけるかと思います。 たびたび、山形新幹線内の力餅について問い合わせがございますが、別の店の製品について当店でお答えでき ないことをお伝えしておきます。そちらのお店にお問い合わせください。 わたくし5代目が生まれる前に、故・3代目がのれんを分けた独立店舗であり、それぞれ一本立ちした店として現在 に至っております。「支店」の肩書がありますが、商品名のみを共有している間柄で「分店」といったほうがおわかり いただけ易いと思います。 さて当店は、みちのくの秘湯、滑川・姥湯温泉の手前にあります。5代目としては「峠の3本 柱」それぞれに興味を持たれる方に同じような比率で当店を訪れていただきたいなとは思って いますが、秘湯ブームということもあり、圧倒的に「湯治の峠駅」の独り勝ち。温泉客の集いの 場、健全な出会い茶屋であります。隣で餅を食べてる方も、そのまた隣で岩魚を突付いてる 方も、目的地は同じはず。袖触れ合った多少の縁で話がはずむはず。私や4代目も、結構あ ちこちの温泉をまわっています。お客様と一緒に各地の温泉談義に盛り上がりそのまま「つれ 湯」となったりも。
4代目すなわち父ですが、自分が峠を盛り上げるために試行錯誤しているのに口をはさんだ りするのですが、そういう4代目自身も若い頃から「この路線で盛り上げよう」というようなことを やっているんですね。4代目が描いた素朴な油絵がそのひとつです。現在5代目が峠の土を 採取しているようにかつての4代目は空いた時間に峠の木石を採取していた。それから30年 以上たって木石がどうなったかは、ご来店後のお楽しみ。お客さんは、必ず聞かれます。「どう やって持ってきたの?」と。もちろん、たったひとつのあの道を運んできたものです。石庭の石 とは、どんな石なのか。あの道とは、どんな道なのか。ここに来られないと分かりません。是 非、来て、見て、触ってみてください。
## よくある質問 ## Q なぜ、こんな山奥にお店があるんですか? A そもそも、当店の初代に当たる人は参勤交代石畳の街道沿いで峠の茶屋を切り盛りして いました。が、一念発起奥羽本線鉄道工事に従事、つるはしを手に作業の傍ら折りを見て は茶屋の主の性、餅を搗いて振舞いました。鉄道開通後、その話を伝え聞いた初代峠駅 長のご助言をいただき、それならばということで汽車の乗客に窓越しに餅を売り始めたの が今のスタイルのはじまり。皆さんが車で来られた道路はそれからずうっと後にできまし た。まず鉄道ありきなのです。確かに車だと山奥のどん詰まりですから、峠駅地方線の終 着駅だと思われる方も多いのですが、なかなかどうして目の前は山形新幹線が走るような 駅前一等地なのですぞ!なぜ、山奥に店があるのか、それは駅があるからなのです。
Q 定休日や営業時間についてどこにも書かれていないのですが? A 創業当時(100年以上前の話)は鉄道以外で(つまり車で)外部から近づくことはできなか ったわけで、汽車時間に合わせて営業していましたが、車によるご来店の比率が大きくな るにつれ、そうもいかなくなりました。ただ、わざわざ山の奥まで来られたのに店が閉まって いたら申し訳ありませんし、こちらも残念ですから、よほどのことがない限り山のシーズン 中は無休です(とはいっても台風でも来れば開店休業になってしまいますが)。あとよく尋 ねられて返答に窮するのが「営業時間」なんです。@職場が自宅であるから通勤もない し、A山の中にぽつんと店を構えているため時間の枠より気象や太陽の枠で仕込みを調 整するし、Bなにより民家が2軒しかない場所に人影が現れたら、こちらの都合にかかわ らず「お客さんを逃してはならない」と動きだすので営業時間のけじめがつかないん です。 だからと、私考えました。 「当店の営業時間とは、お客様来店によるお客様主体の時間枠(※とはいえ非常識では ない範囲内で願いします)」 それ以外に「鍵を開けて来客を待っている当店主体の『開扉時間』という枠を決めよう」 という屁理屈です。 開扉時間 だいたい6:30〜18:30くらい (※4月下旬〜11月中旬の無雪期) (※降雪期は道路の凍結・積雪状況による) それから、電話予約いただいた場合19時台〜最終電車の駅立ち売りをおこなえます。
Q 山形新幹線は止まらないのですか? A もちろん止まりません。なにしろ2世帯全人口10人の駅集落です。もしそんなことになった ら沿線のすべての駅が、うちにも止めろと騒ぐでしょう(笑)。電車利用の方は福島、米 沢乗換えでお願いします。
Q 峠の釜めしをください! A 「峠」と聞くと「釜めし」と連想してしまうほど有名な駅弁。碓氷峠、信越本線の横川・軽井沢 で製造販売です。高度成長期の「余暇・別荘は軽井沢」という時代に、「峠といえば釜めし」 の連想が定着。残念ながらこの連想ゲームで逆転はできないなあ。ごく稀に「なぜ釜めし売 ってないの?」と食い下がるかたがいらっしゃるが「店を間違ってます。当店は鉄道開業時 より駅で餅を販売しています。釜めしは信州です」としか言えない。旅に出る前に予習をしっ かり! [6] ## 駅立売り(車窓販売)文化を残したい‐そんぴん5代目熱く語る ## [ it's a traditional rural railway landscape ] いきなりですが、急速な高度成長および合理化の号令のもと伝統や文化は淘汰されていき ます。例えば、新幹線延伸で便利になり、寝台特急が消えかけています。致し方ないことかもし れません。明治以降、躍起になって山奥の鉱山・木材集積所から港の貨物船まで血管のよう に敷かれた鉄路はこれまたクルマ社会の中で毛細血管が次々消えています。数少ないローカ ル線(鈍行という意)の利用者は車の免許を持っていない層。すなわち、学生・病院通いのお 年寄りなどです。峠駅は県境に位置するゆえ、県をまたぐ通勤・通学・通院者はさらに少なく、 今後電車本数が増えることはまずないでしょう。利用者減と電車の減と。どちらが原因でどちら が結果なのか。まさに「ニワトリが先かタマゴが先か」。 さて、「えきなか」や「新幹線車内販売」「駅弁大会などの催事」をよそ眼に、全国の駅から駅 ホーム立売り販売(車窓販売)がなくなってきています。時代ゆえといえばそれまででしょう。時 短の時代、駅に電車はのんびり止まっていません。安全重視の時代、車両の窓も換気できる 程度にしか開かず、「窓ごしに売り買いするほのぼのとした旅窓」も過去のものとなったようで す。駅立売り車窓販売は、売上追及の目線から見れば非効率・不採算部門なのです。車内販 売や往来の多い駅での出店なら「販売可能時間の制約」を気にすることもないのですが…… …。自分は家業をモクモクとこなしてきました。ごく普通のあたりまえのことです。ですが、気づ けば同業者が次々廃業しちゃって、自分たちの「むかしながら」の車窓販売が「今時珍しく、目 新しく見える」世になったのです。有る筋から聞いた話によると、JR他社や私鉄三セクを完全 に把握しきれないもののJR東日本管内において駅立売りをおこなっているのはもはや我々だ けとのこと寂しいかぎり。 ![]() 車窓販売は本当に”読めない”。全然売れない日が4〜5日続くこともあり、雑念がよぎること もしばしば。しかし、谷もあれば山もあり。トータルでみれば廃業を決定するほどでもなし。2代 目も3代目もそして4代目も考えたことのある、必ず訪れる転換期。個人商店ゆえ小回りが利 き、攻めるときは攻め、耐えるときは耐え、結果114年の間車窓販売を続けられました。 自分は、幼稚園から高校卒業まで汽車通学を13年続けました。ということは…。当然峠駅か ら汽車に乗るわけですから、毎日親の職場が視界に入っていました。しかも、登校時(峠発)は 購入されたお客様の反応を見ることができ、下校時(峠着)は購入しようとして車内で動き始め るお客様が見えたのです。お客様は「売っているか、買えるか」を気にされ、自分は「ボク餅屋 の息子だよ。お父ちゃんとお母ちゃんが売っているはずだよ」と言いたいものの、「もし、駅に 立っていなかったらお客さんガッカリするだろうな」などと考えて、なかなか声をかけられなかっ たことを思い出します。子供のころから、売る側と買う側を見てきたのです。そんな過去を思い 起こすと、家業を継ぐ身として、「売れる売れない」ではなく「売りに行く行為」が大事と思うわけ です。 「商いは牛のよだれ」「商いは飽きないで」とばばさまに言われ育ったその言葉が最近特に染 みるのです。今後ますます鉄道事情も変わるでしょうし不透明な部分は多いのですが「願わく ば、駅立売り(車窓販売)文化を残したい」真摯な思いです。 [ it's a traditional rural railway landscape ] [補] ## 重箱の隅 ## ※1 当店の正しい住所(?)は、米沢市大字大沢。大沢地区には大沢駅、峠駅と2つの駅があるわけです。(それ だけ、蒸気機関車に負担のかかる山越えだったということ)つまり、峠駅の住所も大沢。さらにいうと、小字(こあざ) は冷水沢といい、当店の下を流れている沢(駅を建てる土地をつくるために埋められた)の名前がついています。峠 の文字は出てきません。ここから導き出される結論、 @「峠」という駅はあるが、正しく言えば「峠」という名の土地ではない。 A私〈5代目)は、「分かりやすく言えば峠に住んでいる」わけで、市役所の台帳には「大沢に住んでいる」と書かれ ているわけです。 ややこしいのですが、印鑑を捺す必要のある重要な書類には、正しい住所(!?)大沢848. 「峠」を前面に出す営業用の分かりやすい住所(!?)峠駅前848 といった感じで使っています。 峠ー大沢間、電車でわずかに5分。しかし車だと20分以上悪路を運転しないといけません。冬は道路が封鎖される ので大きく迂回して約50分。同じ地区内なのに50分かかってしまいます。この辺の地理に詳しくない方が大沢駅前 で峠の茶屋を探してもみつかりっこありません。そんなわけで2つの住所を使い分けしています。郵便物はどちらを使 っても届きます。そのあたり融通がきくのはいかにも田舎だなといった感じです。もっというと、郵便番号さえ正しけれ ば、「峠 餅屋」3文字だけで郵便物が届くことも。なにしろ、近所は1軒だけですから…… 2016.9.8四訂 |